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私のスキー史6 レーキャンショック [私のスキー史]

 誠司さんとは、フリースキーに一緒に行く仲であったが、内心、タイムを取れば私の方が早いと思っていた。しかも、当日の朝も、誠司さんの急斜面を滑るその姿は荒々しく、私の滑りの方がスマートで速いと思っていた。しかし、結果は否、
 誠司さんが23秒、私は24秒。1秒の差があった。2本滑っても、ほぼ同タイムで毎回1秒の差がある。3本目滑ったときに正一さんに言われた「あなた、3本とも同じタイムだろう。毎回同じ事してるんだよ、遅くなっても良いから、違う事してこよう!」
正直ショックだった。滑る毎にコーチングを受け、どうしろ、こうしろ言われてやっていたつもりが、、、
「古川君は、良いけど滑りの幅が狭いねぇ」昔、スクールの大先輩に言われた言葉が甦る。

しかもその後、「誠司さんの後輩?」と、やってきた原田さんは、22秒だ。。
カービングして滑っているはずの私が、なぜにこんなに差をつけられるのか?
結構ショックだった。

さらに、「あの人速い」「山梨の国体選手だって」みると隣レーンを無駄のなく滑る選手がいた。
「あ、正二郎が滑るよ」正二郎が滑った。もう比較にならない。
二人とも速すぎて、聞いたタイムなんか忘れてしまった。。。

そんな中「湘南1位」の先生と仲良くなった。中学の音楽の先生で、火曜に彼女が顧問をするバスケット部の試合が有るらしく帰らねばならないのだと。
「熱出したことにして、休んじゃえば?」

翌朝彼女は、雪解け水が、つららから落ちる音のする中中学校に電話していた「熱が出たんで、、、、」チーム38.5°の始まり。。


私のスキー史5 レーキャンデビュー [私のスキー史]

こうやって、大会にはでたものの、ポールに入る練習といえば、武蔵野市の合同ポール練習会のみ。私の所属する武蔵野スキークラブではポール練習はなかった。ポールをやるメンバーは、横河電機スキー部(以下「YRT」)のポール練習に混ぜてもらっていた。
これといったレーキャンへのあてもなかったので、翌年の練習はYRTのポール練習に月1回のペースで混ぜてもらうことにしていた。
 そんななか、誠司さんからレーキャンへの誘いを頂く。誠司さんは、大学の研究室の大先輩で、研究室の合宿でしりあった。それから、ザウスや、車山など、フリースキーの一緒に行っていた仲である。
そして、行ったレーキャンが正一さんの北竜湖である。
2月の飛び石連休だったのだが、他でレーキャンが無かったらしく、多くの企業のスキーチームが集結していた。
 第一勧銀、リクルート、三井物産、ソニー、etc
ゲレンデを見渡す限り、リフト1本しかないスキー場であるが、100人を超すレーサーがいた。しかも、正面には、馬鹿みたいな急斜面。
このレーキャンは、私にとっても現在の基礎となる重要なレーキャンとなった。いまでも活躍する多くの社会人レーサーとの出会い。そして、毎回タイム計時を行う練習。
新鮮なことだらけだった。二日だけの参加の予定を延長して居残った。実はこのとき既に「チーム延泊!


私のアルペン史4 武蔵野1位 [私のスキー史]

急斜面でちょっと失敗したけど、
なんとか、急斜面を抜け、右にターンした。
なんか道みたいなのがあってギャップがあったきがしたが、
とにかく、自分的には、カービングしながら降りた。

今考えると、たいした滑りでは無いんだろうけど、
当時は、なんか、すごくちゃんと滑った気がした。

満足のゴールだった。
(写真はイメージ:実際は飯山国体のもの)

そして、あとでわかったが、武蔵野市のエース秋山は、同じく急斜面で失敗したらしく、私より遅いタイムだった。
初試合で、初完走し、武蔵野市内では1位。

かなり満足な大会だった。
そして、アルペンスキーにまじめに取り組もうと思う基礎となった。。


私のアルペンスキー史3 石打大回転 [私のスキー史]

石打大回転。初めて出場するアルペンの大会である。
リフトからみて、「すごい!」と思った。ゲレンデがネットでセパレートされていて、その最上部にテントがあった。「なんか、大会っぽい!」
そして、インスペクション。何をインスペクションしてよいかわからない私は、斜面を見ていた。
「ここで、急斜面に落ちるんだ。そして、右ターンか。」
そんなとき、横を通った選手が、メモ書きをしている。「へー、あーやってメモるんだ!」
でも、「よっぽど正確にメモらないとだめだよな、、、」

そして、スタート。
何がすごいって、急斜面の入り口で立ち止まらなくて良いんです。
それまで、スクールのイントラバイトをしていた私は、急斜面の入り口で、一端とまって、下の斜面の安全を確認してから滑り出す。。
そんなつまらない癖が染みついてた。

だから、緩斜面の勢いを止めないで、急斜面に入っていけるなんて、、、なんて素晴らしいんだろう!

(写真は、イメージです。実際は飯山国体のもの)


私のアルペン史2 [私のスキー史]

イントラカップは、中斜面を気持ちよく滑れた。
あけてみると、上位1/3に入っていた。
結構うれしかったが、それ以上に、
周りからの目も違ったようだ。
「結構やるねー」

ポールは、タイムという明確な基準によって、優劣がつく。
いつも、私をいびっていたオヤジは私より下のタイム。

それ以降は、あまり何も言ってこなかった。・・・

こんな、ことがあったのも、ポールへの第一歩だったのかもしれない。

学生時代にSAJの1級をとり、社会人スキーヤーとして、何をしてよいかわからなくなっていた。
テクニカルプライズの検定をうけるも、合格点がでない。
何回うけるも、ステップターンは一度も合格点が出ない。。

どうしたら良いんだろう?
初年度在籍していた、白馬コルチナSSでは、競技あがりの選手が、力強いステップターンを繰り返していたことだけが頭に残っていた。。

そんなあるひ、当時所属していた、武蔵野スキークラブの阿部さんに
「レースでてみない?」
といって誘われたのが、石打大回転であった。


私のアルペン史 [私のスキー史]

そんなレースイの非常勤講師時代にポールとの出会いがあった。
毎朝、ナスターレースのポールをセットするのだが、そのセットを手伝った人は、無料でタイムを計測できた。

非常勤講師の仲間のなかで、前日のハンデから、ハンデタイムをだいたい決めて、
昼食の、プリンやデザートをかけていた。
けっこうこれは白熱した。

ポールセット後、ナスターのコースに行くまでのバーンでポールをイメージしたように滑っていた。
久慈さん、円上さん、ワカの、あの板の走りはどこから来るのだろう?
(ちなみに、当時速かったメンバーはその後みんなデモになってる。)

そして、レースイでは、月に一回「イントラカップ」なるものが開かれていた。
ダンサーズのロング中斜面で、タイム計測を行うのだ。


私のスキー史 [私のスキー史]

で、1ヶ月後がんばりました。
レッスンなんて修学旅行がちょっと入るぐらいで、あとはずっと滑ってた。
部屋は狭くて、6畳に7人で、多いときは9人。あり得ないぐらい詰め込まれていた。一人1畳なし。
布団も無し。。
でも、滑ることは許されていた。飯もただ。
風呂はホテルのスパが無料。いっぱい滑って、ずっとジャグジー。
毎日22:00のナイターリフトおわるまで滑ってたら「早くあがれ!」って怒られて
21:45にあがって、後はプロペラやってました。
そんなこんなで、1ヶ月で2級とりました。

でも、陰口たたいてた連中は1級とってましたね。。。いたたた。。

で、翌年そのスクールでバイト雇ってもらおうとおもったら 不採用!!

北海道のSIAで練習始めました。
Mt.レースイスキースクール。
ここは練習するには天国でしたね。
SIAのデモが4人。校長も10期連続デモで、デモ戦でれば、またデモになるだろうみたいな人。

この5人が毎日練習見てくれた。
スキー場も、全て高速リフトとゴンドラで、とにかくすべることに関しては何ら問題なかった。

練習生も、デモ戦本気で通ろうと思ってる連中が多数いた。

もちろん、非常勤の私の立場は低く、非常勤いじめする常勤講師もいたけれども、
このスキー環境がすべてを払ってくれました。衝突もあったけど、非常勤で力を合わせてがんばりましたよ。。


ブログ [私のスキー史]

私、東京生まれの千葉育ち。スキーは中学生の時に5日、高校生で7日ぐらい滑ったでしょうか。。
大学1年のときにコブをうまく滑れたら格好いいなぁ、、という思い「上手くなりたい!」と思いました。

で、大学2年の時に、いきなりスクールのアシスタントを申し込んだんです。
で、スクールに入ってすぐ2級うけたら-9点
小回り 68 大回り68 シュテム67 総合滑走68
だったと思います。
当時、バッジテストで、1種目-3点なんてつくこと無かったので結構群を抜いた悪さでしたね。

スクール内では相当ひんしゅくだったようです。
「なんで、あんな奴が、居るんだ?」
って他のアシスタントが聞こえるように隣の部屋で言っていたのを今でも覚えていますよ。

ま、、ストレスがたまっている奴のはけ口になっていたんでしょう。。

でも、「1ヶ月後、見てろよ!」
ってかんじでがんばってました。


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